超ロングトーク!太田光、大いに80分語る!
7月20日の深夜放送「爆笑問題カーボーイ」で、太田光が今話題の小山田圭吾いじめ記事によるオリンピック開会式解任問題について語っていました。7月27日深夜まではRADIKOのタイムシフトで聞けるので、この問題にさほど興味ない人でもぜひ一度聞いて頂きたい、と思います。
「爆笑問題カーボーイ」のフォーマット的には番組最初に太田がちょっと話してタイトルコール、それから天気予報を田中が読み、それから二人のトーク、コーナーと流れていくのが定番ですが、今回はその最初のトークが全然終わらない。タイトルコールしたのが一時間二十分ほど経過したとき、という異常事態でした。それだけ太田の小山田問題についてのトークが白熱したということでしょう。
そもそもこの週の「サンジャポ」で小山田圭吾擁護と取れる発言をしてしまい、軽く炎上(この炎上ってのもどこからを指すのかよくわからないところではありますが)してしまい、そのこともあってしっかりと趣旨を説明したい、ということからより話が長くなってしまったんじゃないかなと。さすがに80分間書き起こすのも死ぬほど大変なので、聞いた自分なりに趣旨をまとめていきたいと思います。聞いてもらうのが一番いいですが、自分なりの解釈、ということです。
太田が小山田圭吾と時代性について話した理由
まず、サンジャポで小山田問題について話した件で社長に舌っ足らずだと怒られ色々叩かれたと。伝わらなかったのはこっちの負けなので、改めて何を言わんとしたのか説明したい。
ああいう時代(90年代サブカルチャーの残酷ブーム下)だったからということで小山田圭吾をかばったというネットでの言説については、小山田圭吾のいじめの行為自体をかばったのではなく、QJのいじめ自慢記事について話したもの。
あの記事を、あの時代の世間の一部が許容する局面があったんじゃないか。そして、そのことを考えに入れないと正確な見方が出来ないんじゃないか。と、あくまでいじめ行為ではなく、あれが記事になって流布したことについての話だということを強調していました。
小山田の記事は他人事ではない
小山田圭吾のあの記事について。ヒドいのは確かだけど、ただあの記事が時代関係なくヒドい。あの時代を超越した異質なものだって言う人もいるけど、そうは思えない。
あれを異質だったってことにしちゃうとそれで終ってしまう。オレたちもあの時代を生きててあれを見過ごしたとオレは思う、と、あくまで同時代を生きた人間として他人事ではない、自分たちが住んでいた社会で起こったこと。
過去に小山田圭吾がやったいじめ、自分はあんなことはしないけど、ああいう騙り、ああいうことを騙るモンスターが自分の中にも出てくるんじゃないかと思ってる。
昔オレたちが作ったネタもヒドいものだった(具体的にはラジオ内で話してるので聞いてください)小山田みたいにああやってネタにして騙ることっていうのは、自分も昔似たようなことをやった。オレの中にもああいう怪物が潜んでいる、人間っていうのは必ず、オレだけじゃなく、小山田だけじゃなく、誰しもが残酷さを潜ませているだろうと思ってる。
そしてまた、その記事についての責任は小山田だけじゃない。QJの編集者がそういう企画をして記事にしたもので、そしてそれが出版されて販売停止にもならず、廃刊にもならずに雑誌は続いている(最新号が爆笑問題表紙なので、それもタイミング悪いけど)ということは、社会はある程度あれを認めたんだろう。同意したわけではないけど消極的に認めたということ。
あの記事が許される時代なんて無かった、という人がいるけど、実際にあの雑誌が出てるわけだし、あのときの業界倫理がどうだったのか?あれを許す業界。雑誌業界があった。全く関係なかったってことはない。と、世の中が、芸能界が、雑誌業界、音楽業界が全て小山田圭吾1人に全てを被せて終わろう、としている今の状況に異を唱え、自分を含めて関係ある人達はいるだろう。
今の状況の危うさについて
あの記事を養護することは許されない。あれを養護する人間は消えろ、という雰囲気が全体的にあって、それは危うい世界だと考える。
小山田を許せっていうわけじゃなくて、そもそも人が人を裁いていいものじゃない、と思っているから。さばくのは司法のはず。じゃないと無法地帯になってしまう。
ワイドショーがロス疑惑で警察より先に事件を追っていくようになった。あのときからテレビが人を裁いていいのか?と疑問だった。
報道が告発するのは当然のことだし、調査報道によって客観的事実を積み上げていって、最終的に判断するのは司法。もし小山田がやったことが犯罪だっていうなら、あのときの警察、司法、ジャーナリストたちはどう動いたのか?と思う。
今危ういと思ってるのは、今小山田を叩いてる人達、マスコミ、ジャーナリストもあのQJの記事をもとに叩いてるっていうこと。本当に小山田がしたことがどういうことだったかを再調査したのか?被害者やいじめに参加した人達の証言もない。
あのいじめは集団いじめで、小山田はその中でどういうポジションだったのか。そこを判断しないと彼のやった行為を正確に判断できない。誰がどんな役割をしてどういうことをしたのか。その検証をしないで、一つの記事をベースに日本中が批判している、っていうこと。実際、インタビュアーがそういう発言を引き出そうとしてるように見える。
実際、反省文が出た時に「記事には事実と異なる部分もある」という文章があった。あれが出た時に、マスコミもいっせいにあの反省文はウソ、インタビューはホント、何の材料もなしにそう決めつけてるのは危うい。
今のマスコミ全体に聞きたいのは、一社でもあの当事者のところに行って調べ直したのか?ということ。それをやらずに1人の人間を再起不能になるまでに叩き続けるのには躊躇がある。悪いやつをかばう、っていうわけじゃなくて危ういな、と思ってる。
ネットでのバッシングについて
今もネットでバッシングが続いてる。それはほうっておくんですか?と。で、いつの時代でもいじめは許容されないっていうけども、与えられた役柄を、悪役を演じたのを許せないと言って叩いて叩いて息ができなくなった、という事件が最近あった。
それとこれとは違う、あいつはモンスターだっていうけれど、あの事件と違うって言い切れる自信はない。
いつの時代もいじめを許容された時代なんてなかったよ、って散々言われたけど今は?って思う。もちろんネットいじめはやめましょうって大義名分はあるけれど、しっかりと向き合わないといけない。
太田は冷たい、なんでかばうんですか、って聞かれるけど、この世の中がこれでいいとはどうしてもいいとは思えないし、今起きてるこれはいじめだと思う。
もし数十年後にどんなことがあってもネットで他人を叩いてはいけない、っていう常識が浸透したとして、そのとき今小山田を叩いてる人は何ていうんだろう。こういう社会だったっていうのかな?
興奮して色々言ってしまったけど、分断を煽りたいわけじゃないし、自分と違う考えの人も認めるつもり。
永遠に逡巡する表現者・太田光
小山田圭吾についての話は主にこのような感じだったと思います。長尺の話だったし、太田の話も前後したり、考えながら、逡巡しながらだったのできちんとまとめきれず、これを読んでもわかりにくいと思います。また、大事なところを落としているかもしれません。だからぜひRADIKOで聞いてほしい。
太田光の考え方に自分も全て賛成するわけではないですが、この件について他人事とせずに考える。自分に引き寄せて、一種の罪悪感を感じつつ自分のこととして話しているところは信頼できると思ってます。今簡単にコンプラとか、社会正義、世界基準とかに照らして「だからしょうがない」「だから当然」という言い方をして他人を叩いてしまいますが、その中に自分は居ないのか。一旦足を止めて考えることの大切さを感じさせてくれた。そんな「爆笑問題カーボーイ」でした。
そしておそらく太田が例に出したこの事件。今起きているのはこの事件とどこが違うのか。叩く側の印籠が強いだけじゃないのか、とも思います。なかなか社会は変わらない